2025年11月7日金曜日

「野生のブルー 第Ⅱ章」

Ⅱ章 「青のヴィジョンを求めて」

 

 風の色は何色かわからないけれども、風が駆けめぐる大空は、まばゆい青さで輝いている。

 どこまでも続いている無限の青。

 すべてのものを呑みこんでしまいそうな広大な青。

 この青色こそ、二十世紀から二十一世紀にかけて、時代を深く染めあげていつた色彩であると言えるかもしれない。それは、一九六一年、宇宙から帰還した宇宙飛行士ガガーリンの「地球は青かった」という爽やかな言葉に始まる。それからというもの、アポロ宇宙船や人工衛星などから撮影された地球の写真が次々に地上に届けられて、青い地球のイメージはいたるところに登場するようになった。雑誌、ポスター、映画などのメディアを通じた地球的な青のイメージはすっかり私たちの日常生活の中に定着してしまった感がある。おそらくこれほど強いインパクトで普及した色彩は他にないかもしれない。

 けれども、ここで問いかけよう。

 私たちは、ほんとうに青空を見ているだろうか。瞳の底を青く染めあげるまで、青そのものを深く見つめているだろうか。

 

 だがそれにしても、空はなぜ青いのか。

 まずはこんな問いから始めてみたい。科学の本には、次のように解説されている。

 大気は、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、水蒸気、オゾンなどの微細な大気分子によって構成されている。ここに太陽光線が射し込んで来る。この時、大気分子の大きさが光の波長よりも小さな粒子の場合、波長の長い赤色の光はまっすぐに通過するが、波長の短い青色(四五〇~四五五ナノミクロン)の光は、微細な大気分子と衝突して散乱する。この四方に散らばった光が、空を青く輝かせるのだ。

 春の空では、水滴やほこりなど光の波長よりもずっと大きな粒子がたくさん含まれている。そのため大部分の光は、それらに衝突した反射光が散乱してばんやりと白く霞んだ空となる。

 もしも粒子のない純粋な真空状態であったとしたらどうだろう。昼間でも暗い闇の真ん中に、太陽がぎらぎらと輝やいているだけの不気味な空となるに違いない。

 そこで、青とは光と闇との間に広がる透明な輝きである、とさしあたり言っておこう。それは、純白の光でもなく暗黒の闇でもない。光であり光ではなく、闇であり闇ではない。光と闇との間の捉えどころのない空虚な輝きである。空虚であるがために、「青」と呼べば、泡のように消えてしまいそうな色である。「青」であり、「青」でない、言葉の彼方へどんどん遠ざかってしまう色。言葉の意味によって限定しようとする意識の枠からすばやぐ抜け出て逃走する輝きだ。それは無限に逃れ去る奥行きそのもの、それどころかその奥行きの果てで世界を消失させてしまう冷たい無の輝きである。

 ところがここで視点を反転してみると、青は逆にとても親しみ深い色となる。それは、すべてのものたちを包み込んでおおらかに肯定する輝きであり、しばしば私たちの心に希望を立ち上がらせてくれもする。だからこそ、私たちは青の輝きを求めるのだ。

 そうした光と闇の間に振動する両義的な青の輝きの中で最も輝かしい青こそ、冒頭にふれた地球の青に他ならない。それは、他のどんな青よりも青のヴイジョンを示している。何故なら、それは人類が初めて地球の外側から見ることの出来た地球自身の青だからだ。人類は、宇宙開発の技術によって自分たち自身を振り返るためのいわば鏡を持つことが出来たのだ。この鏡としてのイメージによる反省的意識は、人類を実に意味深い精神のレベルヘと飛躍させることになるだろう。

 三十五億年という気の遠くなるような長い生命の歴史において、いつどんなプロセスで人間の自我や精神や心が生まれたのか。まず、生命は自己自身を複製しながら増殖し成長する。この自己複製、自己創出の進化のプロセスで、微小な単細胞から多細胞へと成長する。この間に神経細胞が生まれ、それらが集合して脳細胞が作られて行く。この神経細胞が生まれる時点で、外部の刺激に反射的に作用する単純な知覚意識が芽生えたはずだ。次に神経のフィードバック回路が作られると、意識を意識する意識が生まれる。つまり対象世界(自然や他者)との出会いによる様々な刺激の差異を嗅ぎ分けながら、そのパターンの意味を読み取る上位の意識が発生する。こうした意識を反省する上位の意識、すなわちメタ意識が重層的に構成されることによつて、自我や精神や心が生まれて来たのだろう。

 この生命体におけるフイードバック回路から発生するメタ意識と同じように、地球上の人類は、自分たちの地球自体を外部からフイードバックして反省的に見つめることが出来るようになつた。ここに地球と人類との新しい歴史が始まったのだ。

 しかしながら単に地球の青さに対する反省的意識だけでは決して青のヴイジヨンには到らない。新しい視点に立つとは言え、ここではまだ主観と客観という二元論的な認識図式に立っているにすぎないからだ。それは観測者の視点から地球の青さを対象化する意識であり、表面的な青の快さを感じたとしても、青の深淵に達することは出来ないだろう。

 ここで求められることは、そうした地球から離脱した地点から振り返ることによって、青の底深くまで直感的に入り込むことである。即ち外部から見られた青い地球のイメージがフィードバックされて、私たち自身のイマジネーションの内奥に重層的に組み込まれなければならないのだ。その時、人類や動物や大自然のすべての生命たちの息づかいが、私たちひとりひとりの身体の中に映し出されるだろう。それは、世界を均質で一元的なものにしてしまうグローバリゼーションとは全く正反対の位置にある。ここでは、自己同一化的な「私」一人が中心に在って一つの地球を夢想するのではない。私という存在は、地球上の無数の生命体によって夢見られている。だから私は、夢の数だけ在るのだこ。私は、ここにも、あそこにも映っている。同じように彼や彼女たちも、いたるところに映っている。世界とは、多様な生命たちの複数の夢がダイナミックに交叉しあう多元的な万華鏡だと言える。この生命たちの夢が織りなすダイナミズムこそ地球の魂なのだ。私たちは、青い地球のイメージを突き抜けて、この地球の魂の胎動音を聴きとりたい。

 そこで、私たちは、青を見つめ、青と叫ぶ。この時、青の深みへ向かって「ア‥‥オ‥‥」と発語される直前の口ごもられた「言葉」、「言葉」というよりも「音楽」、「音楽」というよりもさらに根源としての生命の「響き」と向き会いたい。「青」という言葉の根底に流れている森羅万象の「野生のブルー」の響きに耳を澄ましてみたいのだ。それは、〈今、ここ〉において言葉として発されようとする直前の原初的な記号のようなものが、 マグマのようにうごめき、沸騰し、爆発しながらダイナミックに流動している意識の底へ下降することである。そこでは存在と意識とが生き生きとした諸関係で結ばれ響きあっている。その響こそ、青い地球の胎動音に他ならない。

 

 風吹く晴れた青空のうなり、青い草原のざわめき、青葉のさやぎ、鳥たちのさえずり、動物の遠吠え、紺碧の海に砕け散る波の響き、‥‥自然の奥底から沸き立ち、波となって広がる透明な青の響き、そうした諸々の始原的な青い波動に全身を共鳴させること。そうやって〈今、ここ〉に生きている私たちの生の深層に脈打っている「野生のブルー」の響きを実感することが出来るだろう。

 かつて、そうした大自然の青い生命の響きへ向かって身を開きながら青のヴィジョンに目覚めた人たちがいた。彼らは、そのヴィジョンを神話や宗教や芸術のなかに表現してきたのだった。

 例えば、中国のシルクロードの敦煌。その砂漠に面した丘陵の石窟内には、数世紀にわたって多くの壁画が描かれて来た。そこでまず目をひくものは、その青々とした色彩の流麗さであろう。仏の像を中心にして無数の飛天が舞い踊る極楽浄土の空間が、青く流動するラインで塗られている。砂丘をおおう青空のようにその石窟空間は大気的な軽やかさで浮上し、人々を浄土のヴィジョンヘ誘うのだ。

 仏教経典「観無量寿経」の中に、青に関わる一つの行法がある。この経典は、正座し、心を一筋にし、ただひたすら西方の極楽浄上のヴィジョンを観想することによって、生死を超える境地に到達することが説かれている。そこでは、いくつかのステップを踏まなければならないが、「青玉の大地の内も外も透きとおっている様」(「観無量寿経」岩波文庫)を見つめる「青玉の観想」もその一つである。

 チベット密教の修行者は、ヒマラヤの高原の見晴らしのいい丘に座って、じっと青空をみつめる修行をすると言う。そうやって、「青空の本性が見開かれた日から修行者の体の中に流れ込み、修行者の生命と意識そのものが、透明な宇宙的ブルーに」染まりながら、「宇宙存在の核心」に入り込むのだという。(中沢新一「三万年の死の教え」、角川書店)

 敦煌の壁画には、仏教だけでなく中国の西王母神話の図像も描かれている。西王母とは、西の大山系に住む世界の支配者であり万物の母である。この西王母が、年に一度、降臨する時、聖なる青い鳥が付き従うのだという。ここで青い鳥は、天と地とを媒介する聖なる力を持つ鳥として表象されている。おそらく、遥か遠くへ飛んでいく青い鳥が、空の青さの深みへ溶け込んで見えなくなってしまう光景への神秘な感動から、青い鳥が聖なる使者とみなされるようになったのではなかろうかと、中国文学の中野美代子氏は語っている。(中野美代子「中国の青い鳥」平凡社)

 ちなみに漢字の「青」は、「生」と「丹」の組みあわせで出来ている。「丹」は、朱色と同じく鉱物から得られた絵の具や顔料を表わしている。では、「生」という字が選ばれたのは何故であろうか。「字訓」(自川静、平凡社)にはこう書かれている。「生は草木のおい出る形。説文に『進むなり。草木の生じて土上に出つる象る』とするなり」

 すなわち「生」とは、大地の上に草木が芽生えおい茂る姿を摸した象形文字であり、生命エネルギーそのものを意味している。その繁茂する草木や森の鮮やかな青色の中に生命そのものが直観されたために「生」が「青」という文字の中に組み込まれたのだ。

 また「生」は、日本語では「おう」とも読めるところから、「ものが成長して、大きくなり、多くなることをいう。大(おお)、多(おお)、と同根の語。」(同「字訓しだと述べられている。すなわち「生(おう)」とは、「大(おお)きさ」や「多(おお)さ」と語源的に同じ系列に属すことによつて、その成長し増殖する生命の豊穣性を意味している。従って「青」とは、誕生し成長し繁殖する、あふれでるような「生」を表現する色彩として立ち現れるのだ。

 大正元年、志摩、伊勢を旅した民俗学の折口信夫は、「真昼の海に突きでた大王崎の尽端に立った時、私はその波路の果てに、わが魂のふるさとがあるのではなかろうか、という心地が募ってきて堪えられなかつた」と記している。(「折口信夫全集第二十巻/異郷意識の進展」中央公論社)晴れた太平洋の海とも空とも分かちがたい青い遥かけさの彼方に、存在の故郷を思慕する折口の情熱が窺われる文章である。

ここに折口理論のキーワードの一つである古代的な「母が国」のヴイジョンが構想されたのだった。

 伊勢、志摩から太平洋を南に下れば沖縄である。ここでの民俗世界においては、青く広がる海の彼方の死者の霊が帰りつく「あの世」を「ニライカナイ」と呼ぶ。この「ニライカナイ」からやつてくる神を、「青の神」と呼ぶ地域があると言う。(谷川健一「常世」講談社学術文庫)南の海の深々とした青さの中から生まれ出た神の観念であろうと思われる。

 視界を広げてみると青の世界はまだまだ続く。

 「お前は何故、持てるものすべてを捨てろ、と民衆に説くのだ。」

 ローマ法王のそんな質問に答えて、アッシジのフランチエスコは次のように答えた。

 「人は、物を所有すると守ろうとします。守りは心を閉ざします。閉じた心は人や自然の内なる声

を聞くことが出来ないからです。」

 この聖人フランチエスコを敬愛するイタリア中世の画家ジオットは、神秘な青い空で包まれたキリスト教の世界を描いた。この天上的な青の下で、人々は伸びやかに生きている。ここにジオットの聖なる青は中世の堅牢な形式を破って、十四世紀イタリア・ルネッサンスの開花を準備したのだった。

 フランスの現代美術作家イブ・クラインは、青一色にこだわり、すべての作品やパフオーマンスを青で塗りこめることに終始した。青い世界の真ん中で青の世界と一体化して自然と自由を獲得しようとしたのだ。後に彼が使った青色は「クライン・ブルー」と呼ばれるようになる。それは物質世界に監禁されて悲鳴をあげている現代人に捧げられた救いのメッセージのようでもある。

 同じくフランス人で海洋冒険家のジヤツク・マイヨールは、伝記映画「グランブルー」で有名になつた素潜りの名人だ。彼は、潜水服を身に着けない素潜りで水深百メートルを超える記録作りに挑戦した。単なる挑戦のための挑戦ではない。人間の能力の限界を命がけで超えることによつて、自然の流れの中に深く潜りこもうとするのだ。青は、彼がそこでつかんだ自然の力の象徴であろう。

 

 こうして青の世界は無限に広がっている。それは文化の様々な層に見出すことが出来る。ここで私は博物学的な情報の羅列をするだけで満足しようというのではない。言うまでもなく情報をどんなにたくさん並べあげても何も生まれない。情報と情報の間隙をこそ見つめなければならない。

 ……ここまで層いて来て、私はふと一冊の本を思い出した。それは、藤原新也氏のフオトエツセイ集「インド放浪」(朝日出版、 一九八〇)である。ガンジス川をめぐるインドの人々の生と死を描いた作品だ。ここには青く輝くイメージなど一つも出てこない。むしろ恐ろしく気味悪い光景も見られる。川の洲に打ち上げられた水葬の死体を食い漁つている野良犬。うつ伏せに浮かんで川を流れる餓死者の死体には黒いカラスが舞い降りて肉をついばんでいる。早朝の川辺の火葬場の自い布でくるまれて横たわる死体がわびしい。パチパチと音を立てて燃える死体。焼きがらはガンジス川に流される。すべての死者たちが帰るガンジス川。その水は褐色の粘土が混じつて濁つている。いろいろな汚物もどろどろと流れている。決して青く清らかとは言えない。けれども、人々はガレジス川を神秘な母なる川として崇拝する。その中でヒンズーの人々は沐浴し祈る。川は、聖も俗も、清も濁も呑み込んで悠久の時間をとうとうと流れている。万物が無へと帰って行く流れだ。——その時、ひょっとするとガンジス川は青く輝いているのかもしれない、と思えて来た。それが見えないのは、文明の中で物欲ばかりをたぎらせて、見えないものへの感性をマヒさせてしまっている私たちの方なのではないのか。そうであれば私たちは、青のヴィジョンを求めるために、まずは無の流れを見つめるところから出発しなければならないだろう。

 

「野生のブルー ~青に憑かれた芸術家たち」表紙 /著者・武田芳明(義明)



 

「野生のブルー ~青に憑かれた芸術家たち」

 「野生のブルー ~青に憑かれた芸術家たち」 

          著者・武田義明(芳明) /花書院 


(※ 2004年9月1日に発刊しました「野生のブルー」の序文を下記に掲載します。  )

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「青は色彩として一つのエネルギーである。

しかしながら、この色彩はマイナス側にあり、

その最高の純粋な状態においてはいわば刺激する無である。」

(ゲーテ「色彩論」より)

【はじめに】

 青空を見たい。

 青い海を見たい。

 多忙な時間のすきまを吹き抜ける風の向こうに不意に開かれるとびつきりの青さの中に浸ってみたいと思うことがある。

 もちろんあたりをちょっと見まわしただけでもたくさんの青がある。携帯電話の青、テレビの青、パソコンの青、広告チラシの青、キャッシュカードの青、ネオンサインの青、信号機の青、乗用車の青などなど、青は街にあふれている。しかし、どれもこれも表面を飾っているだけの薄っぺらな青ばかりだ。密封されたような息苦しさを覚える。身体の中まで染み込んで来る青さではない。もう、うんざりだ。

 本能が青を欲しがっている。

 それは宇宙の果てから贈られて来たような純粋な青でなければならない。赤でも黄色でも白でもない。どんな形容もいらない青、空や海の深さそのもののような青だ。

 例えば、「青」に「心」を意味する「りっしんべん」をつければ「情」という字になる。「米へん」をつければ「精神」の世界だ。あるいは、「争」を添えれば動きのない「静」となる。だが今、求めようとしているものは、そうした「へん」も「つくり」も加わらない真裸のむき出しになった「青」そのものである。人為的なフイルターを通して飼い馴らされた青ではない。地の底から沸き立つ地下水のようにみずみずしい青を捉まえたいのだ。それを、私たちは「野生のブルー」と名づけよう。

 カラー・コーデイネートという分野がある。様々なTPOに応じて最適な色を配置し、快適な生活環境をデザインすることを目的とする。デザインの最終的な成否は、このカラー・コーデイネートにかかっていると言っても過言ではない。ここでは特に色の組み合わせが重要になる。赤を黄色やオンンジと並べればカジュアルで明るく活動的なイメージになるが、同じ赤を紫や淡いピンクと並べるとエレガントで艶やかで優雅なイメージになる。色は、その並べられた差異によって千変万化する。

 ところが、ここでの「野生のブルー」は、そうした色と色の組み合わせによって生じる色ではない。空間に並ぶ物と物や、情報と情報の間の差異ではなく、もろもろの色彩を超えた遠い地点の何ものかとの差異によって生じる色である。

 その何ものかとは何か。それは、無だ。憂鬱(メランコリー)青さの底にある虚無。あるいは、青空を突きぬけて宇宙の暗闇をじつと見つめる時に感じられる不安な無だ。そんな無を、青の内部にインストールすることによって、青に深い奥行きが与えられる。その奥の奥に何があるのか。何も無い。何も無いけれども、無は鏡となって私たち自身の無を映し出すだろう。私たちこそ無に侵された欠如としての存在であることが、ここで露にされるのだ。

 ところがこの時、無の底から青の表層に向かって狂暴な力が一気に浮上しようとする。それは、存在の欠如を満たそうと飢えた狼のように立ちあがる生命エネルギーである。青の底に否定的な無を挿入することによつて、青の中心部に青自身を差異化する活力が呼び起こされたのだ。

 細胞の増殖活動に見られるように、生命は、自己参照的に自己を複製しながら自己からずれて行く。それは、静的な実体ではなく、変化し、成長し、増殖する力動性そのものである。その運動形態は、機械的な反復ではなく、カオス的な差異を自由に紡ぎ出しながら多様な種へと分岐して行く。ここには、自己から離れる拡散化と、自己自身へ帰る同一化という二重の力が働いている。それは、無の否定性によつて自己同一化を破る飛躍的な創造の力である。生命とは、脱同一化的に差異化する流動体なのだ。世界の豊かさは、この生命の創造的な生成力に負っている。

 しかもここで生命と言う場合、単に生物学的生命を意味するのみではない。それは、生きとし生けるものすべてを在らしめ、すべての存在を包み込む大いなる力を指し示している。日本語で、「いのち」と呼んでいるところのものである。また神話的世界においては、「魂」とも「霊」とも呼ばれたりもする。しかしながら現代の私たちは、それを捉え表現する方法をすでに失ってしまつているようだ。

 だがわずかに芸術の領域において、その可能性が残されているように思える。芸術家たちは、そうした流動する生を捉えようと広大無辺の生命の海へ船出する。彼らは、その深くて青い海の底の絶対的な無へ視線を送り出そうと試みるのだ。彼らの視線は、否定的な無に侵されながらも、もうひとつの豊かな無を発見するだろう。この無の次元においては、もはや無は存在の欠如ではない。無は、無であっても無力ではない。ここでは、無の大波に呑み込まれてニヒリズムにおちいったり、また逆に地上から離れて軽々しいロマンティシズムヘと飛翔してしまわないことが肝心だ。大事なことは、無を生きながら、あくまでもリアルな生を捉えることである。従ってそれは危険な精神の冒険である。それでも青に憑かれた芸術家たちは、無の海原へ船出しようとする。この時、彼らの異なるそれぞれの視線は相互に交錯しあいながら青のヴィジョンを示してくれるだろう。

 狂気の果ての無心のうちに、澄みわたる青空に飛びこんだ高村智恵子。

 青暗い宇宙の銀河から、みんなが幸福になるための方法を導き出そうとする宮沢賢治。

 野良着のように質素ではあっても生活世界に根ざしたデザインとしての久留米かすりを考案した井上でん。

 西欧音階からアフリカ的な大地の響きへと逸脱し、全く新たな音響世界を創造したブルーノート・ジャズ。

 古典的視覚形式を解体させて物の見方を一新させ、世界の多次元多様性を示したピカソ。

 青い海の彼方に失われた故郷を希求しつつ悲しみの神話世界を生みだした古代の人々。

 もとより、ここで求めようとしていることは、世界を青一色で同一化してしまうことでは全くない。無から青へ、青から無へと、たえまない差異の振動によって紡ぎ出される多種、多様、多彩な生命のつながり(あるいは結、縁起、リンク、ネットワーク、 コミュニケーションとでも言えようか)を求めることにある。それは遠くにあるのではなく、〈今、ここ〉の私たちのまわりをひたひたと風のように流れているはずだ。この縦横に流動する生命の輝きこそ、「野生のブルー」だ。この輝きが、私たちの時代の希望と共感の地平を照らし出すことが出来るか否か。私たちの問いのベクトルは、ここに向けられている。

2025年9月22日月曜日

小池新二展


 


 

小池新二展
2025年9月3日~14日
ギャラリー風(新天町)

 

2017年11月12日日曜日

グラフィックデザイン史 素描

「風の街・福岡デザイン史点描」
第1章「「風の街・福岡デザイン史点描」

商業都市・福岡の生活風景を創造してきたデザイナーたちの系譜をたどりながら、デザインが下積みの仕事から時代の先端へと成長していく姿を見る。
 ここでは、印刷や写真など複製技術の発展と近代的商業空間の発展軸という二つの軸線の交点に近代デザインの展開が示される。当然、日本全体のデザインの動きとも絡ませながら述べていくことになる。・・・