「野生のブルー ~青に憑かれた芸術家たち」
著者・武田義明(芳明) /花書院
(※ 2004年9月1日に発刊しました「野生のブルー」の序文を下記に掲載します。 )
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「青は色彩として一つのエネルギーである。
しかしながら、この色彩はマイナス側にあり、
その最高の純粋な状態においてはいわば刺激する無である。」
(ゲーテ「色彩論」より)
【はじめに】
青空を見たい。
青い海を見たい。
多忙な時間のすきまを吹き抜ける風の向こうに不意に開かれるとびつきりの青さの中に浸ってみたいと思うことがある。
もちろんあたりをちょっと見まわしただけでもたくさんの青がある。携帯電話の青、テレビの青、パソコンの青、広告チラシの青、キャッシュカードの青、ネオンサインの青、信号機の青、乗用車の青などなど、青は街にあふれている。しかし、どれもこれも表面を飾っているだけの薄っぺらな青ばかりだ。密封されたような息苦しさを覚える。身体の中まで染み込んで来る青さではない。もう、うんざりだ。
本能が青を欲しがっている。
それは宇宙の果てから贈られて来たような純粋な青でなければならない。赤でも黄色でも白でもない。どんな形容もいらない青、空や海の深さそのもののような青だ。
例えば、「青」に「心」を意味する「りっしんべん」をつければ「情」という字になる。「米へん」をつければ「精神」の世界だ。あるいは、「争」を添えれば動きのない「静」となる。だが今、求めようとしているものは、そうした「へん」も「つくり」も加わらない真裸のむき出しになった「青」そのものである。人為的なフイルターを通して飼い馴らされた青ではない。地の底から沸き立つ地下水のようにみずみずしい青を捉まえたいのだ。それを、私たちは「野生のブルー」と名づけよう。
カラー・コーデイネートという分野がある。様々なTPOに応じて最適な色を配置し、快適な生活環境をデザインすることを目的とする。デザインの最終的な成否は、このカラー・コーデイネートにかかっていると言っても過言ではない。ここでは特に色の組み合わせが重要になる。赤を黄色やオンンジと並べればカジュアルで明るく活動的なイメージになるが、同じ赤を紫や淡いピンクと並べるとエレガントで艶やかで優雅なイメージになる。色は、その並べられた差異によって千変万化する。
ところが、ここでの「野生のブルー」は、そうした色と色の組み合わせによって生じる色ではない。空間に並ぶ物と物や、情報と情報の間の差異ではなく、もろもろの色彩を超えた遠い地点の何ものかとの差異によって生じる色である。
その何ものかとは何か。それは、無だ。憂鬱(メランコリー)青さの底にある虚無。あるいは、青空を突きぬけて宇宙の暗闇をじつと見つめる時に感じられる不安な無だ。そんな無を、青の内部にインストールすることによって、青に深い奥行きが与えられる。その奥の奥に何があるのか。何も無い。何も無いけれども、無は鏡となって私たち自身の無を映し出すだろう。私たちこそ無に侵された欠如としての存在であることが、ここで露にされるのだ。
ところがこの時、無の底から青の表層に向かって狂暴な力が一気に浮上しようとする。それは、存在の欠如を満たそうと飢えた狼のように立ちあがる生命エネルギーである。青の底に否定的な無を挿入することによつて、青の中心部に青自身を差異化する活力が呼び起こされたのだ。
細胞の増殖活動に見られるように、生命は、自己参照的に自己を複製しながら自己からずれて行く。それは、静的な実体ではなく、変化し、成長し、増殖する力動性そのものである。その運動形態は、機械的な反復ではなく、カオス的な差異を自由に紡ぎ出しながら多様な種へと分岐して行く。ここには、自己から離れる拡散化と、自己自身へ帰る同一化という二重の力が働いている。それは、無の否定性によつて自己同一化を破る飛躍的な創造の力である。生命とは、脱同一化的に差異化する流動体なのだ。世界の豊かさは、この生命の創造的な生成力に負っている。
しかもここで生命と言う場合、単に生物学的生命を意味するのみではない。それは、生きとし生けるものすべてを在らしめ、すべての存在を包み込む大いなる力を指し示している。日本語で、「いのち」と呼んでいるところのものである。また神話的世界においては、「魂」とも「霊」とも呼ばれたりもする。しかしながら現代の私たちは、それを捉え表現する方法をすでに失ってしまつているようだ。
だがわずかに芸術の領域において、その可能性が残されているように思える。芸術家たちは、そうした流動する生を捉えようと広大無辺の生命の海へ船出する。彼らは、その深くて青い海の底の絶対的な無へ視線を送り出そうと試みるのだ。彼らの視線は、否定的な無に侵されながらも、もうひとつの豊かな無を発見するだろう。この無の次元においては、もはや無は存在の欠如ではない。無は、無であっても無力ではない。ここでは、無の大波に呑み込まれてニヒリズムにおちいったり、また逆に地上から離れて軽々しいロマンティシズムヘと飛翔してしまわないことが肝心だ。大事なことは、無を生きながら、あくまでもリアルな生を捉えることである。従ってそれは危険な精神の冒険である。それでも青に憑かれた芸術家たちは、無の海原へ船出しようとする。この時、彼らの異なるそれぞれの視線は相互に交錯しあいながら青のヴィジョンを示してくれるだろう。
狂気の果ての無心のうちに、澄みわたる青空に飛びこんだ高村智恵子。
青暗い宇宙の銀河から、みんなが幸福になるための方法を導き出そうとする宮沢賢治。
野良着のように質素ではあっても生活世界に根ざしたデザインとしての久留米かすりを考案した井上でん。
西欧音階からアフリカ的な大地の響きへと逸脱し、全く新たな音響世界を創造したブルーノート・ジャズ。
古典的視覚形式を解体させて物の見方を一新させ、世界の多次元多様性を示したピカソ。
青い海の彼方に失われた故郷を希求しつつ悲しみの神話世界を生みだした古代の人々。
もとより、ここで求めようとしていることは、世界を青一色で同一化してしまうことでは全くない。無から青へ、青から無へと、たえまない差異の振動によって紡ぎ出される多種、多様、多彩な生命のつながり(あるいは結、縁起、リンク、ネットワーク、 コミュニケーションとでも言えようか)を求めることにある。それは遠くにあるのではなく、〈今、ここ〉の私たちのまわりをひたひたと風のように流れているはずだ。この縦横に流動する生命の輝きこそ、「野生のブルー」だ。この輝きが、私たちの時代の希望と共感の地平を照らし出すことが出来るか否か。私たちの問いのベクトルは、ここに向けられている。