2012年6月17日日曜日

特別号 銀河系美術館

ARTing次号は臨時増刊号 2012年 12月17日発行
「銀河系美術館」の大特集です。

宇宙を見れば、みんないつもつながっている!
心にビッグバンを!
体いっぱいに銀河系を!

福岡で活躍している先端的アーティスト20数名が参加します。
ご期待ください。

※この臨時特別号に限り、お問い合わせ事務局は、「ギャラリー風」となります。
                          (092-711-1510)




2012年5月1日火曜日

8号掲載「インテリアショップ・ニック」があった福岡ビルの写真。
2階と3階がNICだった。

ARTing 8号の表紙
ARTing 第8号:  平成24年(2012年) 5月25日 発行

今回の内容は・・・

特集1 人間の芸術 ―障がい者アートと共に

 ●平山隆浩「ちびた色鉛筆が教えてくれたこと」
 ●藤野幸子「可能への助走」~情報誌「アリヤ」 
 ●宗像敏男 「異色アーティストの誕生」 
 ●山中理恵 「PEECE PLANT」 
 ●kimiko 「触覚デザイン展に参加して」 
 ● 知足美加子「障害・芸術・コミュニケーション」
 
特集2  黄金の絵画へ  ―黄金テンペラ画の現在

 ■宇田川宣人「はじめに:現代のテンペラとオーロ」 
 ■田口安男「黄金背景空間との出会い」 
 ■紀井利臣「黄金テンペラ技法」
 ■宇田川宣人「私の博多テンペラ起居往来記」
 ■「黄金テンペラ画作品と制作体験メモ」
    加藤 恵、清田幸枝、吉井宏平
    斎木駿介、中村由姫、田島恵美
 ■緒方知美「日本美術における金」 

● 特別寄稿  インテリアショップ NIC   ―そのデザインの心  武田芳明

2012年1月16日月曜日

福岡 インテリアショップ ニック (NIC)

ARTing 第8号 掲載予定  一九六六年から一九九九年までの三十三年間(福ビル撤退は一九九七年)、ニックは福岡市の天神にあって総合インテリア・ショップとして全国の脚光を浴びていたそこに並ぶ品々は、コーヒーカップからイス、テーブル、カーテンまで選りすぐりの一流品ばかり。世界の最新デザインにふれることのできる贅沢な店であった。デザインについての詳しい知識がなくとも、ぶらりとまわるだけでも心が豊かになったものだ。若者はそこでハイレベルなデートも楽しんだ。ニックのショッピング・バックを手に天神を闊歩することや、ニックの包みの贈り物をすることや、それどころかニックを話題にすることさえもが知的ステータスであった。 戦後の荒廃期から高度成長へと離陸し日本人の生活全体が潤ってくる時代において、ニックは新しい生活空間のスタイルを提供する企業として誕生したが、それはまた西日本地域のデザイン界全体を巻き込む大きなデザイン運動でもあった。そしてその目覚ましい活動は福岡の文化的センスの向上にも少なからず貢献することになった。・・・・だが不思議なことに今までその全体像がきちんとまとめられたことがなかった。・・・・・ そこにどんなデザインの思想(あるいは哲学)があったのか? 3.11という震災後の社会であるからこそ、その読み直しが求められている。・・・ (武田)

2011年11月17日木曜日

2011年10月16日日曜日

岡本太郎と新天町


「岡本太郎生誕100年企画展が福岡パルコで開催される。
2011年11月18日(金)~12月5日(月)

パルコの隣接する新天町商店街に所蔵されている太郎さんの作品もあわせて見に行こう。

ちなみにARTing 創刊号にこの作品について紹介している。(下記に抜粋)

******
 「ねえ、知ってる? 岡本太郎の作品が新天町の社員レストラン(新天町倶楽部)に展示されてるよ。」
「印刷じゃないの?」
「本物だよ、岡本太郎が新天町にプレゼントしたんだって!」
「え! ほんとう?」
「うそと思うなら行ってごらん。」

 今、岡本太郎がホットである。二〇〇三年、メキシコシティ郊外の倉庫で行方知れずになっていた大壁画「明日への神話」がおよそ三十五年ぶりに発見されて世間の話題を呼んだこともあるだろう。だが何よりも岡本太郎が見つめていた何ものかに、時代があらためてひかれ始めたのではないだろうか。そのせいか新天町に展示されている岡本太郎の作品「挑む」も俄かに注目を浴び始めたらしく、一目見ようと訪れる人が増えてきている。ではその岡本太郎が見つめていた何ものかとは何だったのだろう? ここではその新天町の作品を中心に考えてみたい。 岡本太郎。一九一五年生まれ。挿絵画家・岡本一平と小説家・岡本かの子の間に生まれる。十八才の時、両親と渡欧。両親は、太郎をパリに残してイギリスへ渡る。それ以来、二十九才までの十年間、パリでひとり暮らし。フォービズム、キュビズム、抽象美術、シュルレアリスムなど、二十世紀の前衛芸術運動の渦中で青春期を過ごす。絵画を描くことだけに飽き足らずソルボンヌ大学で哲学、社会学、民族学なども学んだ。太郎さんの芸術世界の基盤は、このパリ留学時代に作られたと言ってもいい。帰国するとすぐ中国戦線へ出兵。戦後、日本の前衛芸術の先頭を走り続ける。一九七〇年の日本万国博覧会ではテーマゾーンをプロデュースし、そのシンボルとなる「太陽の塔」を制作。芸術家として時代の頂点に達する。(以下、親しみを込めて太郎さんと呼ばせて頂く)

 ところがその万博以後、あの「芸術は爆発だ」という前衛的な言葉がコマーシャルの広告コピーと勘違いされたり、当の本人も普通のタレント扱いされるなど、天才画家のオーラも危うくも消えようとしていた。コマーシャリズムに堕した芸術家として批判もあっただろう。正直なところ私自身もがっかりしていたひとりだったようである。
 しかしそれは単に太郎さんだけのことではなかった。万博が終わるや否や、時代は大きく変わってしまっていた。現代芸術の多くは、肥大化した商業資本主義の中にすっかり組み込まれ、毒素を抜かれた明るく消化のいいエンタテインメントになってしまった感があった。
 おそらくそのことは太郎さん自身が最も敏感に感じ取っていたことではなかったか。だからこそ商業主義から逃げるのではなく、逆にそのど真ん中に飛び込んで芸術を爆発させてやろう、と考えたに違いない。そこで派手な展覧会をする、テレビに出る、新聞や週刊誌を賑わす、街へ繰り出してイベントを仕掛ける、…新天町商店街との出会いもこの路線上に位置していたはずである。
ところがこの新天町において町の人々と意気投合、後日、新天町に大作が届けられる。それは、商人たちのパワフルな活力にすっかり共感した太郎さんからの純粋なプレゼントであった。この破格の出来事を思う時、私は太郎さんの人間を見つめる眼力の凄さを感じないではいられない。そうだ、太郎さんは決してマスコミやマスプロにへつらう軽薄なコマーシャリズムに走っていたのではない。そんなことなど無縁なひとりの人間として時代の最も先端を走り続ける前衛芸術家であったのだと確信する
・・・・・・・・・(省略)・・・そこに見える「挑む」の文字は、形象に後から付け加えられたものではなく、形象の運動のただ中から生まれつつある文字だとみなければならない。既成概念として固定された文字が画面に押し付けられたのではなく、画面の上の生命的形象の流動の中から自ずと生成して来る生き物のように活き活きとした文字=知に他ならない。しかも次の瞬間にその文字は、意味も形も失いながら荒々しいカオスの流動に紛れこんでしまうかもしれないし、また全く異なった文字を生成するかもしれない。そんな形象から文字、文字から形象へと展開して行くプロセス、コスモス/カオス、生/死、意味/無意味の両義的なダイナミズム、その絶え間ない生成の運動こそ存在の根源的な世界であり、ここに太郎さんの芸術的ヴィジョンがある。
 芸術とは、「人間生命の根源的混沌を、もっとも明快な形でつき出す」ことだ。それは、存在の奥底から生を揺さぶってくる「根源的混沌(カオス)」の表象である。「鏡でみる暴き出された自己の像のように、自分自身の小さな思いを超えて自我の内奥の流動する生命的な根源的カオスの力が映し出されている。」と太郎さんは言う。
・・・(省略)このような根源的カオスの思想は、パリ時代、アヴァンギャルド芸術運動と接触する中で形づくられる。その中でも過激な思想家ジュルジュ・バタイユの影響は多大なものであった。・・・(省略)こうして太郎さんは、芸術において宇宙全体を丸ごとつかんで宇宙そのものと一体化しようとする。宇宙そのものにならなければならない。宇宙となって挑むのだ。そうだとすれば作品「挑む」とは、太郎さんと一体化した宇宙自身によって描かれた宇宙の自画像であると言えないだろうか。