2017年11月5日日曜日

小池新二

「風の街・福岡デザイン史点描」
   第5章「九州芸術工科大学」     初代学長・小池新二をめぐって。
       

□1はじめに
 九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)と福岡市美術館の生みの親という、福岡において芸術に関わる二つの大きな足跡を残された小池新二先生とそのデザイン思想が本稿の主題である。
 アジアで初めての東京オリンピック(一九六四年)が開催され、日本が高度経済成長へと飛躍的な発展を遂げようとしていた六十年代、地元福岡では「九州国立芸術大学」誘致の気運が高まりつつあった。まずその流れを作り出したのは福岡文化協会(現在の福岡文化連盟)で、その嘆願書には当時の福岡の文化人の名が連なっている。やがてそれは産業界の要望や文部省の指示によりデザインを主とする「九州産業芸術大学(仮称)」へと構想が変わって行く。最終的に一九六八年(昭和四十三年)、「国立九州芸術工科大学」(現・九州大学芸術工学部、以下、芸工大とする)として開学する。ドイツのワイマールに創設されたデザイン学校バウハウスにならった日本初のデザインを専門とする国立大学の誕生であった。
 小池先生は、この間に調査委員や準備室長を経て、その初代学長に就任される。この時、六十七才であった。芸工大を退官されると、次に福岡市美術館の創設という大仕事に就かれた。一九七九年(昭和五十四年)秋、大濠公園のほとりに美術館は完成。そのオープニングに際して「アジア現代美術展」を企画、アジアに開かれた美術館という全国でもユニークのコンセプトを実現された。・・・・・・・・・

●理念としての渾沌
●ユートピアとしての自然
●ユートピアとしての共同体
●高次のデザイン