2010年6月10日木曜日

ARTing 第4号 あとがきより

【編集室から】
 いつの頃からか・芸術・よりも・アート・という言葉の方が一般に好んで使われるようになった。だがその差異についてあまり意識されているとは思えない。
 その語源においてARTは、ラテン語のARSに由来し、ギリシャ語のテクネー(技術)に対応する言葉だという。そしてこのテクネーとは、自然の中で人間が生きてゆくための知の総体であった。ところが中世から近代にかけて「技術」は細かく専門分化して行く。その過程でARTは美に奉仕する狭義の「芸術」へ向かい、ARTから分離した「技術」は、経済性・効率性・合理性の追求を軸に「自然」を対象化し抑圧するようになる。私たちはこの近代的「技術」の恩恵に預かっているのだが、同時に、「自然」と人、人と人との親密なつながりを失なってしまうことになった。〈ARTing〉が向かう問題圏の広がりがこのあたりに予想される。
 今回の特集である版画は技術色の強い領域である。だが各作家は機械的な「技術」に流されることなく、「技術」をふたたび「自然」の側に引き寄せようとしているかに思える。作家が刷りの「技術」を工夫し磨きをかければかけるほど、作家の意図を超えて、まさに「物質(=自然)」が作品の表面に湧き出て来るのだ。
 特集「あるがまま~もうひとつのアート」では、アートは誰彼の区別なくみんなのもの、「あるがまま」でアーティストだと言う。「あるがまま」とは「我がまま」ではない。「我」は「在る(=自然)」に生かされている。ここで求められているアートは、特権的な「芸術」ではなく、空気を呼吸するように「自然に生きるための技術」としてのアートである。
 自然・アート・技術とつなげば当然次はデザインである。次号の特集では、「デザインは社会を変えるか?」という問いを発して今日のデザインの社会的役割を考えたい。
 さて本紙編集中にドキュメンタリー映画「地球交響曲 第七番」(龍村仁・監督)が完成したというニュース。福岡では七月十九日上映とのこと(於・福岡市中央市民センター)。自然と人間をあらためて考える機会となるだろう。                   (武田芳明)